産業のようす
伊那は製造業が盛んな地域として、日本の工業立国としての地位を支え続けています。就労人口の実に70%が製造業に携わっているという、大変特殊な地域でもあります。その訳は養蚕と製糸業、そして製造業という歴史から学ばなくてはなりません。
1、戦前
古くから伊那谷は、養蚕が盛んな地域でした。養蚕農家が集まった組織が農協の始まりだったとされます。農家は、一家総出でお蚕様【おかいこさま】を宝物のように育て、繭を売って暮らしを支えました。映画「あゝ野麦峠」で知られるように諏訪・岡谷は製糸産業が盛んでしたから、伊那はシルクとなる繭を供給し続けたのです。
製糸業は衰退していきますが、すでに産業化・機械化を成し遂げていましたから、工業の土台は築かれていました。
2、戦時中
戦争が激化するにつれ、大都市圏から旧製糸工場跡を利用した多くの工場疎開が集結しました。
セイコーエプソン、オリンパス光学工業、帝国ピストンリングなどといった企業は航空機関連を担っており、地域の機械工業の発展に重大な影響を与えました。
3、戦後
そして戦後は、時計・カメラ・レンズなどの精密機械工業の生産が増え、信州の気候風土と相まって東洋のスイスなどとも称されました。諏訪の北沢バルブ(現、KITZ)からは、戦後ヤシカ(現、京セラ)、チノン(現、コダック)、三協精機などの新興企業が分派独立し、戦後の高度成長期のカメラ、オルゴールなどの「精密機械」の担い手として活躍したのです。
4、昭和
高度経済成長と共に、近隣であった伊那にもそれらの工場が数多く進出し、農家の暮らしを次第に変化させていきました。農家の多くが平日は近くの工場に勤めて給与を得て、休日に農業を兼業するという暮らしに変化していったのです。
行政も雇用の確保と税収増に向けて、工場誘致には積極的に力を入れました。
広大な敷地の確保が容易であること、水源が容易に確保できること、災害が少ない土地柄であること、しかし何より労働賃金が安価であったことや、中央自動車道の開通により東京・名古屋から物流運搬が容易になったことなどの、いくつかの要因が重なったからだと言えます。
さらには、その工場からの下請け工場も星の数ほど増加していき、主婦までもが工場に勤めて労働力を支えるようになりました。共働きが圧倒的に多いのはこのためです。
そして子供が高校を卒業すれば地元の工場に就職する訳ですから、家族中が工場勤めという特殊な地域になっていったのです。
現在でも、就労人口の実に70%が製造業に勤務している実態があります。
KITZ伊那工場 http://www.kitz.co.jp/
KOA https://www.koaglobal.com/
長野KENWOOD http://www.kenwood.co.jp/
日本電産サンキョー伊那事業場 http://www.nidec-sankyo.co.jp/
ルビコン http://www.rubycon.co.jp/
PISCO http://www.pisco.co.jp/
伊那食品工業 http://www.kantenpp.co.jp
もともとの“強み”である先端技術産業をさらに高めていく「高度加工技術産業」と、新たな社会構造に適用する「健康長寿関連産業」の2つの産業を基軸とした設備投資等を行なうことが望ましいとされているようです。
伊那の大きな企業も、「ものづくり」から研究開発型の企業スタイルに生まれ変わろうとしています。