歴史に抱かれて

伊那は歴史の舞台となってきました。いったいなぜでしょう?
そのキーワードは以下の4つが考えられます。
1、地形的要因
 ・伊那は平坦な河岸段丘部分が多く、災害も少なかった。そのため肥沃であった。
  肥沃な土地は領地争いが絶えなかった。
2、地理的な要因
 ・高遠までが諏訪大社の領地であったことと、豪族たちも諏訪氏の系統であった。
 ・戦国時代の高遠城は、三河地方や下伊那地方から見ると、諏訪大社および諏訪地方までの要となる要塞であった。
3、戦国武将らによる要因
 ・越後の上杉氏、甲府の武田氏、尾張の織田氏、三河の徳川氏といった戦国武将たちが信濃国を取り囲むように存在していた。
4、スキャンダルとしての要因
 ・高遠は江戸時代初期より将軍家との繋がりによって表舞台の存在であった。
 ・歌舞伎で有名な「絵島生島」事件でも、江戸城大奥の御年寄・絵島は高遠藩にお預けとなった。
 
この項目では、平安時代から近代・明治になるまでの歴史を簡単に勉強してみましょう。
 
平安時代
画像イメージ~伊那春近領~
現在の伊那市小黒川~下伊那郡松川町付近までの、天竜川西岸の河岸段丘は「伊那春近領」という国の領地でした。今でも伊那市内には西春近・東春近という地名が残っていますが、平安時代の伊那春近領は宮中の御服を仕立てるための麻布を調達する土地であったとされています。
鎌倉時代
~北条得宗~
北条得宗家は、鎌倉幕府の要職を占める北条一門の最上位に位置づけられていました。
肥沃な伊那春近領は北条得宗家の領地とされ、得宗家は諏訪大社を中心に諏訪地方から上伊那地方までを支配していました。
上伊那地方には、諏訪氏の系統とされる豪族たちが存在しましたが、彼らはそれぞれの郷を支配しながら、北条得宗家に仕えていたようです。

 
室町時代
~小笠原貞宗~
鎌倉幕府が滅亡すると、室町幕府の征夷大将軍・足利尊氏は信濃守護に小笠原貞宗を任命します。
小笠原貞宗は北条得宗家の残党の一掃に乗り出し、上伊那地方にも侵攻しました。
諏訪大社と諏訪地方、そして上伊那地方も攻略を成し遂げ、その功績により、小笠原貞宗の息子・小笠原政長が伊那春近領を領有します。

 
戦国時代
~武田信玄~
高遠(伊那市高遠町)も代々諏訪大社の領地でした。
高遠を支配していた高遠頼継は、諏訪大社総領の地位を手に入れようと甲斐国の武田晴信と共謀して、諏訪大社総領の諏訪頼重を倒してしまいます。
そうして諏訪大社総領の地位を手に入れた高遠頼継でしたが、争いに乗じて諏訪地方を武田氏が領有してしまったことで、今度は武田晴信との争いが起こります。
しかし武田晴信によって攻め込まれた高遠城は落城し、逃亡していた高遠頼継は甲府にて切腹させられています。
小笠原氏に仕えていた上伊那地方の豪族たちも、ことごとく武田晴信によって攻め殺されました。
武田にとって上伊那は、三河へ進出するための要所として完全な統治下に置く必要があったのです。
そのため、伊那の地侍もことごとく捕えられ、伊那市狐島にて磔にされたとされています。
武田家はこの後37年間、上伊那地方を支配します。

画像イメージ高遠城は武田の重臣・山本勘助により強固な山城へと改修されています。
現在もその際の面影が「勘助郭」の名で残っています。
明治の頃に植えられた高遠城址公園の桜は今や”天下第一の桜”と称されて、
日本でも有数の桜の名所となっています。
~織田信長~
長篠の戦いで武田勝頼を破った織田信長は、信濃国の侵攻を始めました。
次々と山城を落とし上伊那に入った織田勢ですが、すでに武田氏によって弱体化させられていた上伊那の豪族達は戦わずに降伏し、織田勢は高遠まで難なく到達したとされています。
武田信玄の息子・仁科五郎盛信だけは高遠城にて篭城戦を繰り広げましたが落城してしまいます。
伊那市の春日城は、戦国時代は伊奈の豪族・伊那部大和守重慶の居城でした。
高遠城落城後に春日城にも火を放たれ落城、そのまま現在に至ります。
江戸時代
~徳川家康~
織田信長が本能寺の変で亡くなると、上伊那地方は三河国と隣接するために、徳川家康の勢力下におかれていました。
江戸時代、徳川家康の天下となると保科正直が高遠城に居城し、高遠藩として統治するようになります。
上伊那地方は高遠藩となり、下伊那は飯田藩、諏訪は高島藩の領土となりました。

画像イメージ 第二代将軍・徳川秀忠には、お静という女性が生んだ四男・幸松がいました。
恐妻家であった秀忠はお静の妊娠を知り、生室に知られないようお静を武田信玄の娘・見性院に預けます。
 そこで生まれた幸松は見性院の養子とさせ、養育を保科正直の跡を継いだ高遠藩主・保科正光に託したのです。保科正光は、徳川秀忠からの信任は特に厚く、自分にも息子がいましたが、幸松を養子に迎え入れ、保科正之として高遠藩3万石を継がせました。
 後に三代将軍・徳川家光が保科正之の存在を知ることになると、弟として大変に可愛がり、山形に転封し20万石へ加増。さらに、正之32歳の時には会津23万石の大名に取り立てました。
保科氏転封の後、入れ替わりに高遠藩主となったのが、関が原の戦で功績のあった鳥居元忠の孫の
鳥居忠春でした。しかし不始末続きの鳥居家は二代で藩を没収されてしまいます。
その後は、内藤清枚が3万3千石で高遠へ入封となりましたが、そのまま明治維新をむかえます。
明治時代
明治維新により廃藩置県が行なわれると、上伊那地方の幕府領は伊那県に、高遠藩は高遠県に、飯田藩は飯田県に、高島藩は高島県にと再編されました。
その後1871年には全てが筑摩県に編入されます。筑摩県は現在の長野県の中信地方と南信地方、それに岐阜県の飛騨地方とした県でした。
1876年筑摩県が分割され長野県に編入され、現在の長野県となりました。

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